家族、職場、学校、近隣の人々の関係。自分ではどうしようもないと思い込みながら、それでもかかわり続ける。
そこで発生する出来事に行き詰まり、
彼は・彼女はあーいう人だから、
この組織は所詮こういうところだから、
こんな歪んだ性格の集まりだから、
・・・そう思い込んでいるうちに、かかわる自分にそんなつもりは毛頭ないのだけど、気が付くと問題を抱え込んでしまう。
誰かを、何かを、変えられると思い込んで、それとはなしに関係していませんか。
態度が気に入らない - 同僚?
何かと嫌味を言ってくる - 上司?
重箱の隅をつついてくる - 夫(妻)?
ひきこもっている - 息子(娘)?
いつも罵り合いばかりしている - 親?
・・・いつも感情をかき乱され、意識を奪われ、心は平安からほど遠く、頭の中は常にそのことでいっぱいだ。
何というか、どこにでもあるような言葉を連ねて書きましたが、それでも何となく、いや、明確に何を言いたいかわかってしまうあなた!
『問題』を作って、その『問題』と『たたかって』しまっているんです。
そんなことない?
『問題』を解決するために一生懸命にやってるのに、なんてひどいこと言うんだって?
ごめんなさい。
批判するつもりなんて毛頭ないんです。
だって自分もそうやって苦しんだんだから。
今だってきっと、私の中にはたっぷりと詰まっている要素だとも思っています。
だから、その『問題』を抱え込んでしまうあなたに共感するし、今も続けている“努力”に敬意も感じます。
でもね。
そうじゃないんだ。
『問題』と思い込んでいる事柄は、あなたが『問題』にしてしまっているんだ。
哀しいことだけど。
もう一度言います。
痛いほど気持ちはわかる。
苦しくて悔しくて何とかしたいというのもわかります。
大切な、肉親や伴侶、親友。あるいは日々の糧を得るための場所に、日常で顔を合わせる人たちとの間で起こっていることだもんね。
どこの誰との間で起こっている『問題』かによって、表にあらわれる出来事の質は違うかもしれない。
でもね、いつも言う言葉だけど、それは結果だ。
もしその『問題』が、その場で解決したり、あなたの中で長く尾を引いていないのであれば、それは『問題』ではないのでしょう。
けれど、もしその『問題』が別の意味で『問題』であるのなら、ことが起こったその時以外にも、折に触れて、あるいはそれこそずっと、頭からは離れず、胸の中はわだかまり、そして場合によっては逃げ場も未来も消えかかっていたりしてるのではないでしょうか。
だとすれば、おそらくその根っこにあるものは変わらないと思うのです。根深く、心の奥に根付いたあなたの“頑なな”価値観が核となって、本来ならずっと自由度があって、受け止めるもスルーするもありの出来事を、誰かがまるでこの世の真理を踏みにじったかのように解釈して、『問題』に仕立て上げていたりしませんか。
普通の家や学校や職場で、誰かを殴る、これはよくない。家庭ならよく言われるようにDVです。よほど特殊な事情があるにしても、それが何度も続くようなら理由の如何によらず逃げるなり、通報するなり、何らかの対応をすべきなのは今なら“当たり前”。
そうじゃなくても、繰り返し一方的な罵声を浴びたり、ねちっこく何度も微に入り際に穿って人格を傷つけられたりするようなら、それも同じ。
かけがえのない自分を生きるための魂が傷ついてしまう前に、自分を守ろう。
ただ一方で、「曲がりなりにも」理にかなった状況で、“短く”叱責されたり、注意されたり、指摘を受けた時に、それが長く尾を引き、その時以外にも心を支配していしまうようなら、あなたの中にそれを拡大して怒りや哀しみを誘発する何かがあると考えた方が良いと思う。
「そこは邪魔だからどいてください!」
「その言い方は△△に変えてほしい!」
「汚したらちゃんときれいにしておいてよ」
「その癖はみっともないからやめなさい」
・・・・・・・・まあ、確かにあまり聞きたい言葉ではないですけどね。
日常の中で耳にしうる様々な“要求”の声に、自分の中で反応する何かがありませんか。数秒の短い言葉が“強く聞こえた”から、とか、“馬鹿にしているように聞こえたから”“自分より弱い相手に感情をぶつけたから”など、一瞬のうちに理由はできあがるでしょう。
ただ、それは本当にそうなのか、確かめたりしましたか。“裏”の事情、あなたの知らない道程。あなたが正しくない理由もまた、ありえるはずなのではありませんか。
にもかかわらず、そうやって自分の心を御しがたく反応させてしまうのであれば・・・・・・。
それがここで申し上げたいこと、つまりあなたが作り上げている『問題』なのです。
そして、日々の大切な時間 - 仕事や家庭での団欒、自分の趣味への没頭や食事を楽しむこと、ゆっくりとお風呂に入ったり眠ったりする時間 - そういった時間にまで侵入してきて、あなたを苦しめ、怒りの感情を体中に募らせてしまうのであれば、その『問題』とは、たたかわないほうがいい。
それだけは確実に申し上げたい。
たたかっている限り、相手が、あるいは自分が、こういう理由でどれほど間違っているか、必死になって理屈を組み立てようとしてしまう。これがこうで、だからどうで、結局あーで・・・・。
ある理屈が成り立つ、ということは、180度異なる理屈も成り立つのです。
それは屁理屈、と言うことなかれ。
理屈など、相当程度に屁理屈を含んでいるものなのです。
だからね。
『問題』がある。
そこまではいい。
少なくとも、いまのあなたにとっては、“それ”は『問題』なのだから。
ただし、その『問題』と和解した方がいい。
それを申し上げたいのです。
その『問題』と仲よくしてみてください。
その『問題』があることをとりあえず自分の一部として、少しだけ他のことに目を向けてごらん。
突然ハッピーになったりはしないけれど、そこにつながる道のりが出てくるよ。
同時に、もっとその『問題』の本来の核に近づくかもしれない。そうすると、それまで『問題』と思っていたことは徐々にどうでもよくなって、もっと対応を要する何かが見えてくる。
年末年始に『心の重石とともに生きよう』と題して書いたけれど、『問題』が本当に『問題』であるならば、そこに行き着くと思う。
そして、そこでもきっと「和解」が求められて、もしその「和解」を受け入れられたときには、人生そのものが大きく変化するよ。
偉そうに書いたけれど、原家族が壊れ、父が自殺した頃の自分は、どうしようもなく『問題』を作り出していた。そうすることで、とても大きな昼も夜も雨の日も晴れの日も、どこにいても何をやっていても繰り返し襲ってくる衝撃を和らげ、やり過ごし、日常の些末な出来事のせいにすり替えることができたから。
ほんとは、自分が生きていて、大切な人々が生きていて、仲良くできれば、それ以上の望みは次元が異なるはずなんだけど、それに“もう一度”気づくためには、一度そこを離れる必要があったんだよね。
そこにたどり着く、気づいたとき、今の生活からは見えない、新しい未来が見え始めるかもしれません。
皆さん
私たちは、ありがたいことに生きている。
そして、選択肢を持っている。
選択肢とは、何も思い切った行動を必要とすることばかりじゃない。
試すこと、一歩踏み出してみることも含まれている。
『問題』を『問題』としているうちは、そこにたどり着けない。見えているつもりでも、幻を見る眼鏡をかけているようなもの。
だから、和解して、手放そう。
人生は短い。
限られた時間を『問題』で固定してしまっていることに気づくと、大切な『問題』が適切な距離を置いてくれるようになる。その間にいろんな時間を彩り、日々を多用にしてみよう。それが、『問題』と和解する、第一歩かな。
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