心の痛みは、それが重く深いほど
長くそこに居座ります。
原因は様々、といいたいところですが、
実際には、人の関係に帰結します。
関係性の一番の基礎は、
家族、
ではなく、
自分自身
です。
特に、社会人となった後は、
その比率は大きくなります。
そこに気づいて、
自分の中でいい加減にあしらっていた
自分の一部と向き合い、
もう一度自分の中に取り込むことを
私はこのブログで進めています。
それがうまく進むと、
このまま落ち込んでいても仕方がない、
そう思って、
新しいこと、楽しいことを始める。
自分の受け入れが少し進んで、
状態が良くなったかなと感じる頃になると、
そんなトライアルが始まります。
さて、そのまま順調に進めば問題ないのですが、
よくあることとして、
すぐ、次の壁が現れます。
なんだか気持ちが乗らない。
心にブレーキがかかってしまう。
気が付くと、痛みの世界に戻ってしまう。
もう、
こんな苦しい場所にいる必要はないことは
自分を受け入れ続ける中で
身にしみて理解できたはずなんだけど…。
実際には、
こんな軽い感じの文字面では表現しきれない、
どうにも前に進めない状態を
私は経験しました。
同じような感覚を持つ方は少なくないようです。
実際にあちこちに足を運んだり、
以前からやりたかったことを思い出して、
話をしたり、
稽古をしたり、
学んだり、
新しい仕事を始めたり、
いろいろと試してみるのだけど、
なんだか、それとなく期待していた
充実感とか、
人とつながる感じとか、
安定した楽しさとか、
そういった感覚に今一歩届いていない。
近づいたのだけれど、
何か見えない壁で触れられず、
元の世界から抜け出ていないような
そんな感じがして仕方がない。
よくよく自分を振り返ってみると
あれ?
まだ何か痛いぞ。
何かを恐れているぞ。
そんな感じでしょうか。
痛みを取り去る準備は、
取り去っても良い環境が必要といいます。
痛みを取り去るには、外的、内的の
2つの環境と心持ちがそろうことが大切です。
その前に、痛みとは何でしょう。
傷つくことですね。
苦しむことですよね。
哀しんだり、恨んだり、見捨てられたり…。
どんなとき傷つくのか。
一番は、人の中に入っていこうとして、
うまくいかない(と感じる)ときですよね。
相手が単数だろうと複数だろうと、
自分の気持ちに従って出向いた場所で、
人とつながることができないとき、
つながりを拒否されたとき、
痛みますよね。
でも、その痛みは、
もう一度新しく何かを始めた場で
生じたというわけではなく、
過去の何かが棘となって心に刺さったまま、
今の状況に対して反応しているためです。
棘とはもちろん比喩ですが、
棘では済まない大傷を抱えている方も
ままあるので、
自分の受け入れが不十分なままで
すんなりと次に進めないのは
仕方がないかもしれません。
以前、
『幸せになることへの恐れ』について
書きました。
恐れているのは、
幸せになることじゃない、
『また、いつかの時のように』
人為的につながりが断たれて、
喪失する痛みを味わうことを
恐れている、
だからその恐れにつながる
幸せを持つ可能性自体を
恐れている、
そのためには、
痛みを持ち続けていた方が
遠ざけられて都合がいい、
という意味です。
痛みを手放せない、
こんなメカニズムが働いているのなら、
その痛みにまつわる自分自身を
もう一度見つめなおしてみましょう。
もう一度、自分の内面と向き合うと
そこには、過去は認められても
今の自分を認められていなかったり、
自分を受け入れ続けてはいたけれど、
抱えた心の痛みへの気づきが不十分だったり、
していることがわかってきます。
様々な自分と出会い、
遠ざけていた自分を受け入れることが
最初から完全にできていればいいのですが、
ふつうはなかなかそうもいかず、
その不足した部分が痛みとなって
試みの中に現れるわけです。
ですから、勘違いしてほしくないのは
新しく何かを始めたことが問題なのではなく、
新しく何かを始めたが故に
受け入れる必要がある自分が見つかった、
ということです。
そんな自分を受け入れることを続け、
内的な環境を整え、
限りある人生を自分を信じて、
自分が喜べるように生きる心持ちを整える。
そして、痛みを感じたら、
そこに受け入れる自分が見つかったと気づいて
受け入れを続けながら、
くじけることなく『繰り返し』行動する。
最初はたどたどしくてもいいのです。
小さな、ささやかな自分の楽しみ、喜びを、
もう一人の誰かと共有するようにしていくと、
一つ先の関係が見えてきて、
新しい自分の居場所が見出せるようになります。
その時、壁として生じていた痛みは、
いつのまにか消えています。
ー今回の表紙画像ー
『町の夕暮れ』
夕方の買い物の帰り、公園からパチリ。
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