感情の浪費は生きる力を消耗させる

日々の棚卸

 

お恥ずかしい話ですが、

最初に、

自炊を始めた頃の

失敗の話をさせてください。

遠い昔、まだ平成が始まった頃のことです。

 

皆さんもよく飲むお味噌汁。

私も好きなのですが、

夏場など、作り置きしていると

暑さで腐ってしまいますよね。

表面に幕が張ってしまいます。

これを見ると、

あ、もうダメだなと

やむなく廃棄処分にするしかありません。

 

あれはまだ私がピチピチしていた

ある夏の夜のこと、

本当に何というか、

食べ盛りで食いしん坊の

若造だった私は、

鍋の蓋を開けて

その状態、つまり味噌汁の表面に

幕が張ったあの状態を見たにもかかわらず、

その意味するところを考えることなく、

おもむろにコンロの火を入れると、

暖めだしました。

そして、ぐつぐつと煮立つまで温めると

セットしておいた白米とともに

ワサワサと書き込むように、

ビールとともに食べてしまいました。

 

どうか、突っ込みその他無しで、

そのままお願いいたします。

 

当然ですが、その日の夜更けには

本人にとっては

“原因不明”の腹痛と、

腸を痛めたことによる高熱が出て、

眠ることができませんでした。

翌日は会社を休んで、

近所の国立病院まで10分ほどの距離を

重い体を引きずって歩きました。

 

国立病院は通常、紹介文がないと、

診察を受けるまでに

時間を要するのが常なのですが、

私が脇の下から取り出した

体温計を見たナースは

微妙に顔色を変えると、

私の診察の順序を先にするよう

取り計らってくれました。

 

診察を受け、

上と下から入れる解熱剤を

それぞれもらって病院を後にすると

それから2日ほど寝込みました。。。

 

…恥じかぴぃ~。

 

言うまでもありませんが、

“おかしな” ものを取り込むと、

正常に消化することができなくなり、

便秘になったり、

下痢になったり、

熱を出したり、

痛みが出たり、

します。

きっと、大人の皆さんは

このような“おかしな”ことは

行わないですよね。

 

ちなみに、

“おかしな”のところを

“大量に”と言い換えても

同じことになります。

“偏りすぎて”と言い換えても

やっぱり同じ。

 

暴飲暴食と書くと、

一部のおじさんおばさんの

生活習慣病的なニュアンスとして

受け止められがちですが、

実はそうとばかりも言えません。

 

健康のために

バランスの良い食事を心がけようと

あの食べ物、この飲み物と

巷の情報に踊らされて

手を出しているうちに、

立派な過食が毎食続いて

肥えてしまったり、

サプリメントメインで

栄養を補ったり、

特定の食品が体にいいからと

そればかり食べていたりで、

偏った食事が常態化してしまう…。

 

体に取り込むものに含まれる栄養が、

そのまま自分の体が生きるための

エネルギーに置き換わると

往々にして考えがちですが、

現実には、

消化したり、

吸収したり、

という代謝のところにもまた

膨大なエネルギーが必要で、

そこが機能しなくなってしまうと、

肝心のエネルギーは

得られないことになってしまいます。

 

同じことが、心、感情についても

言えると思います。

 

100%完璧に、正確に

自分と他人と社会を捉えている人は

いませんが、

それにしてもあまりに

“おかしな”考え方、

“おかしな”ものの見方、

“おかしな”自分の受け止め方、

それらをもとに湧き出る感情、と

その感情に踊らされて、

生きづらさを感じる日々が続くと、

私たちの中で

正常な心の動き、

感情の発露や感じ方について

消化不良が起こります。

便秘の代わりに鬱が生じ、

下痢の代わりに衝動的に動き、

体が痛むこともあるけれど、

いつも胸の中が疼き、

重石を感じ、

焦燥感や人の声に苛まれてしまう。

食べ物の消化と異なるのは、

それらが続く時間が長く、

目に見えないということ。

死に至るほど重い心の病を

便秘や下痢と同列に扱うとは何事か、

と感じる方もおられるかもしれませんが、

習慣化したときの重みは、

どちらも同じだと私は考えています。

 

飲食物の取り込み方を間違えると

生きるための必要なエネルギーが

得られないように、

私たちの心や魂に染み付いた感性の

行き過ぎた歪みに対処することなく、

自分や人や社会の受け止め方を

間違えたままでは、

生きるために必要な

心のエネルギー、

例えば勇気、

例えば気概、

例えば愛しさ、

例えば喜び、

例えば嬉しさ、

例えば親しみ、

例えば愛着、

例えば、…

例えば、…

例えば、…

そういったいくつもの大切なものを

失ってしまいます。

職場でも家庭でも、

そんな状態が続いていたりしないでしょうか。

会社はいじめられる場所だ、

上司は自分のことを嫌っている、

自分は結婚するに値しない、

幸せなんてあり得ない、

好きなことなんて何もない、

人のためにできることなんてない…。

働き方、生き方が

そんな風になっていれば、

苦しいのは当たり前だし、

一歩引いてみれば、

そんな状態であることが

正常であるはずがないのは

自明のことです!

いずれもが、自分自身を痛めつける

感情の浪費で、

それが生きるために必要な力を

消耗してしまっています。

人は無駄なことはしません。

後から振り返った時、

なぜ自分がそうであったか、

納得するときはあるでしょう。

ですが、自分を痛めつけて良いことは

そうそうあるものではありません。

浪費とはそういうことです。

 

一所懸命に藻掻くことは

時にはとても大切だし、

自分のために必要な知識を

学ぼうとするのは尊いことだと思います。

ですが、少したちどまって、

必要なものは、

自分の中に十分ある、

少なくとも眠っている、

ということを実践してみると、

“そんな”考え方をしなくても、

“そんな”見方をしなくても、

“そんな”受け止め方をしなくても、

よいことが、じわりと

感じられるようになります。

 

感情が、心の動きが、

正常に流れるようになるには、

つまり自分自身が楽になり、

落ち着いて、

生きる力を獲得するためには、

自分を肯定することを実践し、

等身大の自分を認め、

思い込みを外して他者を認め、

連綿と作り上げられてきた社会を認め、

自分が今できること、

自分が目指したいことを明確にして、

生きることに注力することです。

 

あ、苦しいな、

あ、痛いな、

あ、怒りが続いているな、

そう感じたら、

自分を含めた悪者を探す代わりに、

おかしな考え方、見方、受け止め方を

していないか、

ちょっと間をおいて

振り返ってみてください。

歪みだったものが個性へと

“昇華”されていくときがきますよ。

 

ー今回の表紙画像ー

『青空と山並み』

文部省唱歌の題名のようだ。。。