人とは、その人の記憶のことだ、と言った精神科医がいます。長年、精神科の臨床に携わり、多くの患者と接してきた結果、自然に導かれた表現なのでしょう。
著作で読み、その文章を目にしたときには、なんだか非現実的な表現をしている人だ、と感じたものです。その後、実際にお会いする機会を得て話を聞き、そういうことなのか、と自分なりに解釈しつつ、表現だけが遊離して頭の片隅に置き放したままになっていました。
記憶・・・。
哀しい記憶。
楽しい記憶。
嬉しい記憶。
悲惨な記憶。
温もりの記憶。
残酷な記憶。
おかしな記憶。
当然という記憶。
・・・・・・。
私たちは、自分にとって幸せな未来を得ることを望んでいます。「そんなもんねえよ」と言ってプイッと横を向く人は、妬みながら望みの直視を避けつつ、やっぱり自分の中に持っている。
“未来”とは“現在”の先にある、これからあらわれるもの。
“現在”の自分の『思い込み』によって彩られ、形作られていきます。
“現在”とは“過去”の集積。
“過去”の中にある自分が意識的・無意識的に特定のシーンの『受け止め方』を選択して構成されている。
そんなことねえよ、と苦虫を嚙み潰したようにそっぽを向く人は、その表情を形作る以外の過去を遠ざけている。
先日、小学六年の夏まで生まれ育った町へ行く機会がありました。実は、時々一人で訪ねている場所で、ここ10年ばかりその頻度が増えました。ちょうど母親との再会や死別と重なったことも影響していたと思います。
町の建物は、古い文化住宅や鉄筋コンクリート姿 - 昔ながらの重々しい感じの建物ですが - のアパートなどから、瀟洒なマンションや個性のある民家の連なりなどに大きく様変わりしましたが、区画整理された街並みと学校や公園や川などは昔のまま。折に触れて書いているとおり、ここがもう一度自分の中にあたたかい記憶として蘇った頃と、再訪し出した時期は重なっています。
そう考えると、『場所』を訪れる前に、自らの内側の変化の兆しがあったことに思い至ります。関係ないもの、見たくないものとして遠ざけていたいくつもの自分と邂逅する“きっかけ”があって、自分の内側でそれらがこれまでの抑圧を振り払おうとするかのように幾度となく感情を揺らし続ける。やがて光の中に出てこようとして求めたもの、その一つが私の生まれ故郷だったのでしょう。
ここにくると、何かがざわつく。
日常の中で、つい混乱していた頃に引き戻されてしまいがちな部分がニュートラルに戻される感覚が体の中に感じられる。それは、自分が存在することを許されている、などといった生半可なものではありません。
自分は素晴らしい
自分は素敵
自分は立派
そういった自己を肯定する言葉の数々以前に、自分の存在が今ここにあることが当たり前・当然と思えるほど、根源的な抱擁の感覚、あるいは自分とつながった感覚。
過去は、嘘と査定で塗り固められた時間なんかじゃないことに気づく。自分の根っこと形作る骨格もまた同じ。肉親がどうであれ、起こった哀しい出来事が何であれ、少なくとも自分はその中で懸命に自分の内側から湧き出てきた感覚にそって生きてきたことが、まるで昨日のことのように鮮明に思い出されます。
あなたは今、どんな町に暮らしているでしょうか。
どんな人々と暮らしているでしょうか。
どんな生活をして、どんな日々を送っているでしょうか。
これは、今現在への問いです。
仕事や、家族や、日々の人間関係に、自分を見失いかけ、自分の存在価値を自ら貶め、自分の中にある自分の想いや欲求より他を優先した時間を送り続け、そして何かに追い詰められていたりしますか。過去を振り返って、「あの頃の自分は、もっと元気で天真爛漫で誰とでもつるんで・・・」と思っていたりするでしょうか。そういう人は、事情が変わると「あの頃の自分は、いつも親からこう言われていて、先生から、こう扱われていて、とても辛いことばかりだった・・・」と幸せだったということまで変えてしまっていたりしないでしょうか。
「もっと元気で天真爛漫で・・・」と言う方は、そういった類の過去“だけ”は終わったことで今の自分には関係なくて何の影響も与えない世界だと遠ざけています。年齢を重ねた自分が、もう一度その感覚を蘇らせてしまったら、軋轢や嫌悪でニヒリスティックになっている現実とのギャップによって、ただでさえ感じている生きづらさと自分を見失うことによる恐怖に近い不安が増幅されて、生きていけなくなる危険性さえ感じるから。
だから、その後の事情が変わったときの発言、つまり「実はあの頃は嫌なことばかりでさ」と記憶の中から取り出して蓋をしてしまう。
もしそうだとするのなら・・・・・・、それはとても残念なことです。私たちの中にあるもの、自分の中にある記憶や感情が、本質的な意味で自分自身を傷つけたりはしないと申し上げておきます。もちろんつらい、哀しい出来事、本来あってはいけない屈辱的なシーンなどは、胸の奥に住み着いて傷を刺激するかもしれません。けれども、それらの記憶さえ、その時の自分と胸を開いて再会し、感情という想いを紐解いていき、そこにいる自分を認めて和解すると、明日を生きるための素敵なドライブフォースになってくれることは間違いありません。
ならば、あの日の自分と自らの中でもう一度会い、一体化し、その時間をあらためて味わい、一緒にいるようになることは、それだけで安定した足場と力強い歩みの源泉をもたらしてくれます。
私は、今これを読むあなたがどこで生まれ、どこで暮らし、何をしている人なのか知りません。でも、あなたのことは、あなたにはほんとはわかっているはずです。
ほら、見えませんか。
あの時、あの町のあの場所で、無心になって何かをしているあなたの姿が。嫌な想い、苦しい想いばかりが襲ってくるのならそれはそれでしかたないでしょう。ただ、それ以外の過去の“現実”もまた大切なあなた自身です。
今が幸せか、とか、ここにいてもいいのか、とか、もしかしたら親や学校ではそう考えたり感じたりせざるを得なかったことがあったとしても、それ以外のいくつもの自分がしっかりと息づいている朝や昼や夕方や夜があって、笑ったり、想像したり、何かに取り組んだりしているあなたが、今もあなたの体にしっかりと宿って、あなたを守ってくれていますよ。
過去は、これから未来へ向けて生きる自分を勇気づけてくれる存在なんです。
次回、もう少し別の角度からこのことをお話しさせていただきます。
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