かけがえのない自分に気づき、自分のための人生を歩みだすきっかけは、人それぞれだと思う。記憶の彼方に置いてきてしまった人や風景との再会、何かに触れた時に蘇る淡い想い、見ないようにしていた感情の流出、喪失し、二度と戻らないと思っていた思い出の追体験。想定できるシーンはその人だけのもので、それこそ無数に存在する。
今回は、私たちがかけがえのない自分を生きていくために大切な、“原風景”の体得についてお話したい。もっとも、体得と表現はしたものの、決して真新しい何かを獲得することではないことは、お読みいただければわかると思う。
最初に“原風景”とは何か、について。
意外なことに、高校入学時に学校からの指示で購入した厚さ10㎝ほどもある辞書(典型的な捨てられない派です)でもこの言葉を見つけることができなかったので、とりあえずウィキペディアから抜粋する。
『人の心の奥にある原初の風景。懐かしさの感情を伴うことが多い。また実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。個人のものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼすことがある。』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E9%A2%A8%E6%99%AF
「懐かしさの感情を伴う」「心象風景」など、何となく私が使用したい意味を含んでいた。「心象風景」、つまり、心に想い描かれた風景なので、実際に目で見た風景そのものというよりは、素の感覚で感じとり五感に根付いた、その人自身の世界を表すものだ。したがって、その風景が現実を正確に描写しているかどうかにそれほど大きな意味はない。言い換えれば、原風景とは、その人の世界観を形作る無数のシーン・思い出と、その中にいるその人自身を指しているともいえる。
生まれてから今まで口にしてきた飲食物が私たちの体を構成し、体質を特徴づけているように、無数の出来事と思い出、その核ともいうべき原風景は、私たちに特有の心と感性とを紡ぎだしている。
こんな定義のような文章で書かれてもピンとこない人もいると思うので、私自身の一例を示してみようと思います。
まだ小学生の低学年の頃。
居間のコタツでうたた寝から目覚めた時のこと。冬の記憶の一つだ。学校が終わって外で遊びまわり、家に帰ってコタツでテレビを見ているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めると、ぼんやりした意識の中でぽかぽかと温まった体にけだるい感じがあった。部屋の電気がつけられていて、テレビから大相撲中継の終わりを告げる太鼓の音が聞こえていたから、おそらく夕方の六時ごろだったと思う。隣接する台所からは、夕食の準備で何かを煮ているらしい鍋の音がしていた。
記憶は、本人が気づかないほどの細部が微妙に書き換え続けられながら覚えているものだから、もしかすると別の時間の別の番組だったかもしれない。それでもこの風景は、私の子供の頃のささやかな記憶で、多くの思い出の中の1シーンだ。ぼんやりとした感覚といい、けだるく懐かしい感じといい、どこかプルーストの「失われた時を求めて」の出だしのシーンと似てるな、と思ったこともあった。何かのセミナーの集まりで、仲間の一人に話したら、全く違うといわれて、ちょっと凹んだけど。
冬の寒さとコタツの温もり、台所から漂う夕飯の匂い、テレビから聞こえてくる声、窓の外で木枯らしが木々を揺らす音、うたた寝、まどろんだけだるさ、そしてそこに批判も蔑みもなく、自分がいることが当たり前である、と認識している自分。
それは、自分自身の存在を当たり前に認めている私自身を構成する、ささやかな原風景である。
お判りいただけるだろうか。あまりインパクトのない、おそらくどなたの中にも存在している、ごくありふれた懐かしい記憶だと思う。
もっとも、このページをご覧の方々には、そんなものありゃしない、そんなこともあったかもしれないけどもう関係ないよ、そういうのって今はなんか嘘っぽく感じる、なんか胡散臭い、という方も多いのではないかと思う。だからこそ、このブログを書いているし、この後の話は、そういう方々にこそ読んでいただきたい。
かくいう私自身、今は思い出すと素直に懐かしさを感じられるようになったそれらの風景も、その後、家族に起こったいくつもの哀しい出来事と、自分が自分に対して無意識に、そして無制限に与え続けた忌避とも蔑みともとれる思い込みの末に、長い間、自分の記憶として感じられなくなってしまっていた。温もり、優しさ、気持ちよさ、美しさ、胸を震わせるような感動。家族という人が育まれる場所で紡ぎだされるそれらの想いを、ずっと嘘くさく、胡散臭く感じ続け、遠ざけていたのだと思う。そうしておかないと、その後に起こったいくつもの哀しい出来事の記憶に襲われるたび、耐えられないと感じていたから。
だから、今この場にたどり着いて、目の前の拙文を読んでいるあなたには、こう伝えたい。
あなたの年齢も性別も関係ない。
あなたには、
その時の自分の許容量を超える、哀しい、残酷な、ひどい出来事がおこってしまった。
自分を含めた大切な誰か、何かを守れなかった自分を忌み嫌って、気づかないうちに心と体の隅々まで自己不信と自尊心の破壊衝動を染み渡らせてしまった。
それが自分を支配し、心身を蝕むほどひどいことになっていると気づくことができず、自分を粗末に扱いながら、別の誰か、何かを悪者にして生きてしまった。そして、本来ならあなたを包んでくれている世の中を、人を、勘違いし、日常を苦しいものにして、世を儚み、いつしか自分の心を構成していたはずの自分の分身である無数の大切な想いや感覚までなかったかのように扱ってしまっていた。
そんな状態で、そんな見方で、そんな感覚で、ほんとうに、よく生きてきたものだ、と思う。
でもね、
自分に向けて、
そんなひどい言葉、ぶつけなくていい。
そんな責任、感じなくていい。
そんな受け止め方、明らかにおかしい。
“そんな何とか”は、もういらないんだ。
私自身も“そんな”良くない日々を過ごした後、最初のブログで述べたように、カウンセリングや治療を受け、自らもカウンセラーの資格を取得し、自分を見つめ直すために時間を費やした。おかげで、治療的ではあったとしても、つまり補助剤としての薬と同じ意味合いでの効果ではあったとしても、ささやかながら、自己を肯定する感覚を芽生えさせられていたと思う。
きっかけは、母との再会、そして久々に見た昔のアルバムだった。
ある春の日の夕刻、長く疎遠にしていた母親が交通事故にあい、地元の救急外来に担ぎ込まれたと連絡があった。最悪の状況も想定して病院に到着すると、白髪で皺くちゃ顔になった母親がベッドに横たわり眠っていた。長い歳月、音沙汰なくしておきながら、少ししたら退院して普通に暮らせるという医者の言葉に安堵した。
その後、母が暮らす田舎家に保存していたアルバムを見る機会があった。ページをめくるたび、昔から何度も見ていたはずの、赤ん坊の頃から子供時代を写した幾枚もの写真が目に入ってきた。父と母と妹と私が様々な場所でいくつもの表情を浮かべながらフレームに収まっていた。
田舎家をあとにして、こちらに戻った日の夜。
部屋の明かりを消してベッドに入ろうとした時だった。
ずっと昔の、真冬の夜の記憶が湧き出してきた。体に蘇ってきた感覚が体中に風景を再現した、という感じだった。
大晦日の夜。
当時、我が家は古い借り物のアパートに暮らしていた。
私はまだ小学生で、おそらく紅白か何かを見終わって眠りにつく準備をしているところだったと思う。特別に夜更けまで起きていられた小さな興奮もあって、そのまま眠ってしまうのがもったいなく感じた私は、布団の敷いてある部屋をそっと抜け出し、ドアを開けて真夜中の戸外に出た。
身が竦む真夜中の凍気に思わず体に力を入れながら、視線が自然と上に向いた。小道に面したアパートの踊り場から見上げた夜空は透明で、星が瞬いていた。
もうすぐ年明けを迎える町はしんと静まり返っていた。
小さく吐いた息が白くなった。
風のない冬の夜の冷気が全身をおおい、ひんやりと感じた。
嘘はない。
その静かな直観が私を包んでくれた。
嘘はない。
嘘なんて、なかった。
胡散臭さも、不信感も、蔑みも、どこにもありはしない。
ただ、直面する勇気と余力がなかったんだ。
ゆっくりと、しかし止めどもなく、涙があふれてきた。
冬の冷気の心地よい寒さも、見上げた夜空の透明さも、しんと寝静まった真夜中の町の風景も、その時、私が感じ取った世界には、嘘のかけらさえ存在しない。それらは全て今の私につながる、私の世界観を支える原風景だ。そこには、私という存在が当たり前にあって、当たり前であることが当たり前であるほど自分の存在を肯定していて、その私がドアを開けて家に入れば、そこには父がいて、母がいて、妹がいた。私たちは、時にひどい衝突があるにしても一つの空間で一緒に暮らす家族で、たとえその後、感情や経済的な問題からばらばらになってしまおうが崩れてしまおうが、その時、その場所に4人が家族として暮らしていたことも、それぞれが家族だと思っていたことも、どこにも嘘なんてなかったんだ。
写真に写る子供の私と妹、そして今これを書いている私より若い時代の父と母の姿。それは、皆が、持てる世界観の中で、怒って、笑って、信じて、ずっと家族が続くものだ、と思いこんで、生きていた証だ。ただ、その後に起こった出来事は・・・・・感情の処理の仕方を、世の中の受け止め方を、ほんの少し間違えてしまったために起こったことだった。それは、確かに喜びとは程遠いものだ。しかし、そのことによって、誰のものでもない、自分の心と体が感じていた、この世に当たり前に生きている小さな1コマ1コマが永遠に失われることなんてないのだ。
ゆっくりと、幸せの継続の中で、互いに年を重ねながら変化していくはずの家族を哀しい出来事の中で失って、そこに根差した自分の根幹を形作る大切な想いまでを、感覚までを、胡散臭いと、嘘だと否認していたのだ、と、実感した時だった。それまで自分を支えていた原風景とその底流に流れる肯定感を、その後に襲ってきた哀しい衝撃の後も継続して感じ取るには時間が必要だったのだろう。そうやって意味を理解する間にも、一度は遠ざけていた原風景や、当時は気にも留めていなかった風景が時間も場所もばらばらに、しかし愛おしさの中に何日もかけてあふれ出てきた。
自分の中に蘇り、存在する感覚に嘘はない。誰にも奪うことはできないし、ずっと当たり前に居続けてくれるそれらの感覚は、自分以外の何者かであるはずもない。私は、私として日々感じる私の感覚と思い込みとを当たり前のものとして生きてきたし、それはこれからも私自身を生きていくことに勇気を与えてくれる。友達との他愛ない与太話の時間や恋の切なさの記憶など、無数の過去のシーンとそこに間接的につながる仲間や家族、その時流れていたメロディや身を置いていた風景などが私の世界を心の中に作り上げて、私が感じ想う私を作り上げている。
そういった、普段忘却しがちな場面やそこに付随する感情は、私という人間が、かけがえのない存在であることを知らせてくれる大切な要素の一つだ。
原風景を内在化したから全てが解決する、とは限らない。しかし、これは、かけがえのない自分を生きるために、誰にとっても必要なプロセスなのだ。
哀しいこと、つらいこと、悔しいこと、憤ること、落ち込むことなどが続き、苦しみの連続に耐えきれず頽れるようになると、自分の過去と自分の存在、そして人生や未来までをも、暗とか悪とかに染めがちだ。
反感と反論とを恐れずに言わせていただく。
それは卑怯だ。
どの口が言ってるんだ、と言われそうだが。
いつまでも自分を忌み嫌い、人生や未来を否定し続けることは、ここまで何とか生きてきた自分という存在を、あまりに馬鹿にしている。あまりに軽んじすぎている。同じように必死に生きている他者をも蔑む行為だ。
認めたくはないだろうが、そうしたいから勝手に自分を貶めているのだ、と嫌々ながらも気づきのかけらを得るとき、眠らせていた記憶がまた原風景として未来へ歩みだすための力を与えてくれる。
特別なことは何もない。
ただ、当たり前に自分の中に存在する、自分だけの一つ一つの輝きを認めてほしい。その輝きは、世間の評価軸とは何の関係もない。そして、揺らいで生きてきてつらかった私たちの中に私たちに必要な1つの軸をもたらしてくれる。ふわふわと頼りない足取りの歩みに、自分自身で生きていくための足場を与えてくれる。
それこそが、私がそうであったように、あなたが自身の中に宿してほしい原風景のことだ。
いつだってあなたの中にそれはある。
いつだってあなたの中でそれは待っている。
いつだってあなたに寄り添ってくれている。
原風景を取り戻そう。
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