生きているとどうにもうまくいかないことが続くことはある。
家族、仕事、人の関係。
これを否定する人はいないと思う。
連続して『問題』が起こることもあれば、ある特定の状況に心がずっと捉われ続け、日々の生活に余裕を感じることもなくなっていたりする。
いつも言っているように『問題』は結果なのだけれど、ともかくもそれが連続してあちらこちらで日々の生活の中であなたに襲い掛かってこようと、あるとても根深い(と思い込んでいる)たった1つのことにずっと心を占有されていようと、それが
未来永劫続くと思うと、
自分には代えられないと思うと、
悪いのは…で、そうでなければ自分は…、と考えてしまうと、
私は不幸だ、被害者だ、となってしまう。
それをやっている限り、
そこに居続ける限り、
実は、かけがえのない自分を生きることとは正反対の、3つのとんでもないことをしでかしていることになる。
自分は被害者だ、として悪者を仕立て上げている
自分はその問題に対処するには無力だ、と嘆いている
自分は変わる必要はない、とその場にとどまり続けている。
これを続けていると次第に、どこに向かうこともなく、当人が本当は願っていないはずの不幸という『安住の地』に住み着くメカニズムが発動する。
メカニズムの作動を保つ原動力は、他責だ。
自分の人生に起こることの責任は、自分にはない、少なくとももっと大きな責任を持つ存在が他にいる、という暗黙のアピールだ。
確かに、自分にはどうにもできなかったこともあったかもしれない。ことに子供の時に起こった出来事は、それを経験していない人にはわからない、筆舌に尽くしがたい辛いことでもあったかもしれない。
そうこうしているうちに年を重ねて、動く気力や体力がどこかにいってしまったりしている人もいないだろうか。
自らが変化しなくても、時は流れる。
十年や二十年くらい、本当にあっという間に過ぎてしまう。
気が付けばすっかり年を取った『被害者』が、すっかり古びてひなびた不幸の家屋に住み着いたまま、本来変えられない自分以外の何かを変えようと壁の中から呪い続けるばかり。
気づいてほしい。
変えようとしている行為が、
今の苦しみ・不幸な状態を、人を、世の中を呪うばかりの、哀しい時間を固定させてしまっていることを。
今できるほんとのことは
自分以外に向けていた感情を手放すこと
捉われている生活の“癖”から抜け出すこと
その裏側で傷め付けられ、苦しんでいる自分に気づくこと
苦しめているのも痛めつけているのも自分であると知ること
そして、自分との付き合い方を変えること
それによって必然的に変化する人との関係の中で、新しい生き方を見出すこと
だ。
言葉にすれば、たいした量ではない。
一つ一つをこなしていこうとすると、その人ごとにいくつもの躓き場所が出てくるかもしれないけれど。
でも、一度わかってしまうと、後戻りすることもしたくなくなる。何度か失敗して、元に戻ってしまったかのような錯覚に捉われながら、自分なりに生き方を模索するようになる。
だから、自分を見つめ直してゆっくりとでいい、確実にやっていこう。
自分があきらめない限り、あなたは内に秘めたあなた自身のかけがえのなさを生き直すことができるのだから。
あなたが内に秘めたかけがえのないあなたは、あなたが生きることをあきらめず日々暮らしてきた中で、あなたが今知る以上にあなたの中にしっかりと根付いている。
そのことに気づく道のりは、最初はやぶの中に足を踏み入れるように険しく感じるかもしれないけれど、歩みだしてみると案外気持ちのいい景色が広がっているかもしれない。
やがて、安寧とも落ち着きとも希望とも言える世界を感じられたとき、きっとそれを語る新しい言葉と表現が欲しくなるはずだ。それはそのままあなただけが感じられる新しい生き方の実現につながる。
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