既に夢から覚めてしまっているのなら…

日々の棚卸

 

充実感や生き甲斐を感じられないまま、

迷い苦しむ日々を送りながら、

何とかしようともがき続けている時、

何かの“夢”に救いを求めていることは

ないでしょうか。

 

なかなか認めづらいことかもしれません。

 

認めづらいとは、

認めたくないという感情以前に、

そのこと、つまり

“夢”に沿って生きようとしている、

ということを認識していない、

という意味を含んでいます。

 

実際には、

いい加減に生きていると思っていても、

這いつくばって生きていると思っていても、

最低どん底の人生だと思っていても、

 

そこにたどり着くまでには、

何某かの“夢”が影響しています。

 

ここでいう夢とは、

眠っている間に見る夢ではもちろんないし、

希望・野望として見る明示的な世界では

ありません。

 

生まれ育つ中で自然に身に着けた

口調や所作、服の選択から食事の種類、

出来事の受け止め方や世の中の見方などのように、

潜在的に思い描いた日常世界のことです。

 

こう書くと、ピンとこないかもしれませんね。

“夢”と呼ぶより、むしろ

世界観と言った方がおさまりがつくでしょうか。

 

ここまで生きてきた道のり中で、私たちは、

どこを彷徨うか、

どうやって悩むか、

何について考えるか、

といったことを含めて、

 

あらかじめ定められた一組のセットのように、

半ば自動思考的に

その“夢”に沿って行動し、目標を決めています。

 

ますますピンと来ないかな…。

 

ともかく、

 

こんな出来事には

こんなスタンスで、

こんな態度で、

こんなことを考え、

こんなことを口にしたり黙っていたり…。

 

この生活は、

この(グレードの)会社で、

このくらいの収入で、

こんな人と付き合って、

こんなレベルの生活を送って、

子供は何人で、

どんな学校に入れて……

親は……

などということです。

 

やっぱりピンとこないでしょうか…。

 

ともかくも、私たちは

仕事の職種や住む場所や年収などの

“てにをは”は異なるかもしれませんが、

大枠としてはやはり、

“夢”の影響のとおりに生きています。

 

先ほど、“夢”を世界観と言いました。

特に、生まれ育つ中で家族に共有されてきた

世界観です。

 

それが“顕在的な”指導や躾、

あるいは視線や顔つき、雰囲気で教育され

それが、

言葉になり、

風景となり、

皮膚感覚となり、

沁みつくように身につくのです。

 

そして、

可能かどうかは脇に置き、

毎日食っちゃ寝して、

お金に困らない生活がしたい、

という人がいたとして

(誰もがそう思ったことはあるでしょうが)

 

それでは食べていけないだろうという

一つの現実と、

人生を充実させるための目標と

社会への貢献という甲斐とが重なりあい、

 

今の年齢のあなたは、

(望み通りではなかったとしても)

その職種を選択して、

その会社に入って、

その時間割で生活していて、

その収入と貯金があって(なくて)、

その家に住んで、

親兄弟とはそんな関係で、

伴侶や子供とそうやって生きている。

あるいは独り身で生きている。

 

良いとか悪いとかの話ではないことは

お分かりだと思います。

 

ただ、最初に述べたように、

明らかにその状況が行き詰っている時、

生きる原動力として無意識に刷り込まれた

“夢”=世界観は

もうすでに現実には機能していないのではないか、

ということです。

 

私も含めてあちこちで言われることに

『好き』『得意』を仕事にして生きよう

『ゾーン』に入ろう、

人とつながって生きていこう、

などがあります。

 

間違いではないし、

そうできるならそれに越したことはないのですが、

 

そこにはやはり大前提があって、

『それ』=“夢”をロスっていたり、

『そこ』=“夢”がボロボロの状態だったり、

つまり土台・土壌が乱れていたりしては、

とてもそんなことは言っていられません。

 

油絵が生き甲斐の人がいたとして、

妻が家を出ていったり、

子供が自殺を図っていたり、

会社で毎日汚いもののように扱われていたりしていて、

それでも油絵を描くことを

生き甲斐と言って楽しめるはずはありません。

 

その人が油絵を好きになったのも、

その人の家族がそうなってしまったのも、

その人の仕事の状況も、

 

その人が持っていた世界観に沿って生きる中で

そうなってしまったと考えることもできるでしょう。

 

ある家族のもとに生まれて

ある教育を受けてきて、

そこにあなたの気質や人生の解釈が加わって

今のあなたがある。

 

でもそうやってあなたが感じ取った

“夢”=世界観の元が崩れたにもかかわらず、

そのままの現実を続けようとしても

有効に廻っていくはずがありません。

 

それまであなたを支えていた支柱が

折れたり腐ったりなくなったりして、

本来の力が削がれてしまっているのですから。

 

柱の位置が悪かったのか、

柱の材質が問題なのか、

太さや長さや強度なのか、

あるいは他の構成との関係性なのか、

使用環境なのか、

本質的な無理があったのか、

それはわかりません。

 

ただ、

明らかに望まない状況から

変化が必要な現実に対して

これまでの日常の維持という名目で

痛みを麻痺させていたりしないでしょうか。

 

なぜかわからないけれど、

動けない、

先へ進めない、

何かを表現することができない。

 

そんな状態であるならば、

もう既に、“夢”から覚めてしまっている。

その現実を受け止めるときかもしれません。

 

手放し方を学ぶときがきたと

言い換えてもいいでしょう。

 

ある意味とても辛い時期ですが、

同時に、

これまで経験してきたことを素直に受け止め、

今現在の自分にシュリンクする

きっかけにもなりえます。

 

“夢”はとても大切なことで、

でも過ぎ去ってしまったことにしがみ付いていると、

悪“夢”に襲われ続けます。

 

私たちはある意味、

常に洗脳されて生きています。

それ自体は仕方ない。

 

なんだかとても

ポップなメロディに包まれていた

気がしていたけれど、

なんだかとても、

親の愛憎劇に取り込まれていた

気になっていたけれど、

なんだかとても、

企業の昇進階段を早く上がれないと

生きる意味はないと思ってたけれど、

 

………

気がつくと意味を感じられなくなっている。

 

きっかけは様々でしょう。

 

配属転換や転職だったり、

離婚や子供を授かったことだったり、

人には言えないような悲劇だったり…。

 

何をしていたにせよ、

それまで求めるものがあって、

何らかの形でそれを体現しようと

していたのは事実。

 

その想いを支える“夢”が

いつのまにか醒めてしまっていたり、

機能しなくなっているにもかかわらず、

 

そのままの日常を演じ続けようとしているから、

心身がおかしくなってしまう。

 

現実と言うのが“夢”なら、

今生きるところで適切な“夢”であることが

必要ですよね。

 

もし、かつての“夢”から覚めてしまっているのなら、

きちんと醒め切らないことには

新しい現実と折り合った

次の適切な“夢”を見ることができない。

 

『醒めてしまった』“夢”もまた、

大切なあなたの一部です。

 

次の場所、新しい世界観は、

『醒めてしまった』“夢”が土壌になって

生れます。あるいは見つけます。

 

表面的な生活、仕事、付き合う人々、

収入、暮らす場所、何もかもが違っていても、

その土壌は陸続きです。

 

陸続きでなくてもいいけれど、

だいたいは陸続きです。

 

だから、『醒めてしまった』“夢”を

それが仮にどれほど過酷なものだったとしても、

 

強引に切り離したり、

忌み嫌ったりするのではなく、

これまでの自分を支えてくれた原動力であり、

規範であったことに感謝をして、

手放しましょう。

 

それがしっかりできて、

次のステップにつながった時、

自分を苦しめているはずだった

『醒めてしまった』“夢”は

これからを生きる勇気の源になります。

 

ー今回の表紙画像ー

『公園のつつじ』

春ですねえ。