心の重石と一緒に生きよう

日々の棚卸

何かをしようとすると、どうしようもなく気持ちが萎えてしまう、体が動かない、無気力に陥ってしまう。心の問題で葛藤される方々には、そういった経験があると思います。もちろん私にもありました。

「洗い物しなくちゃ・・・・・はぁ(ため息)」

「電話かけなくちゃ・・・・・へぇ(ため息)」

「外回り行かないと・・・・・「ふぅ(ため息)」

「もう起きなくちゃ・・・・・(ほぉ(寝息))・・・

こんな苦笑してしまうような表現ではもちろん済まない状態ですよね。

これらの反応が「ちょっと疲れたから」で済むならよいのですが、それこそ絶望の闇に置き去りにされたような、このまま変化の予感がかけらも感じられない、そんな状態というか感覚であるなら、これはつらい。文字通り、鉛筆一本動かすにも気力が必要と言う感じでしょうか。心ない人はサボってると受け止めるかもしれませんが、当人にとってはサボるサボらないなどとは次元が異なる苦しみで、何かをすることの効用が信じられない状態が、ある種極まってしまっています。つまり、その一つの作業がどうのではなく、どんな目的で何をやってもそれが最終的に自分の不幸とつながってしまっている、という感覚です。

私たちは生きるために働いて何某かの糧を得たり作ったりしているわけで、そのために考えたり動いたり人と接したりします。生きるとは、文字通り自分と言う個体を維持することであるわけですが、人が集団で生きる社会では、安全や安心、最低限の衣食住を満たしたり、自分の日常生活と社会生活を幸せに営んだり、大切な人々もまた幸せに生きていることであったりすることです。

これらの実現を願って行っていることの一つ一つの所作が日常の行動になるわけですよね。

裏を変えせば、生きるための目的であるはずの基礎的なことが自分の行動の結果実現できていない、あるいはおかしくなってしまった、自分や大切な人が不幸になってしまった、事実かどうかは別として無意識にそう“思い込んだ”私たちが陥るのが、最初に挙げたように体が動かなくなったり、どうしようもなく気持ちが萎えてしまったり、といったことになるのでしょう。何を言っても言わなくても、何をやってもやらなくても、行き着く先が心身の痛みを生ずる世界になってしまうことが続くと、人は心の拠り所を感じられない喪失感に苛まれるようになります。衣食住などの物理的なサポートを受けることは、最悪生活保護を受ければできるかもしれませんが、平安な心や幸せの予感が感じられない状態です。

 

そんな時、私に限らず多くの方の話として、心の中に何か重石みたいな塊があるようだと言われます。塊は岩のようでもあり、大きな穴=空間と言う方もいるようです。

私としては、心のブラックホールと表現するとしっくりきます。故ホーキング博士でさえ二転三転せざるを得なかったブラックホールの全貌を私のような凡才が把握しているわけではもちろんありませんが、見かけよりずっと巨大な質量で、光さえも吸収して二度と外に出さないというのは、見立てとして心の重石の明確な比喩に有用だと思うのです。

人という限られた物体の内部にあるにもかかわらずその威力は命を奪うほど無限で、喜びや楽しみを含めた感情一切を吸収して外に出さない、そんなイメージですね。

ブラックホールが生まれる原理はよく理解していませんが、まごうことなき宇宙の一部であるのは事実です。心の重石は今のところ科学的に証明された存在ではありませんが、自分の中に確固として感じるのであれば、少なくともこれは自分の一部であることには変わりない。そして、この存在を認めることから、次の人生が始まります。

 

自分を身動きできなくしてしまうこの存在。心理療法のワークでは、自分の隣にもう一つ誰も座らない椅子を用意した上で、この存在を擬人化して取り出し、その椅子の上に置いて対話する、という手法があります。当人の行動を制限する一個の人格として対面し、その理由を対話により探る作業です。場の臨場性が効果を左右する方法ですが、ここでお伝えしたいのはその接し方のことです。

ワークでは、この存在を取り出して、いろいろな質問をします。

今どう感じてる?

どうしてほしい?

何が言いたい?

この存在が淵源となって生じる日々の心の痛み、苦しみを何とか緩和させよう、遠ざけよう、鍛え直そうとする人は多く、上述の擬人化療法を終えて確固とした存在として認識するようになった後も、このような接し方を繰り返したりします。かく言う私自身も、まさにそんな時期があったりもしたのですが・・・。

この存在 - 心の重石、これは何かというと・・・・・・そう、自分自身です。

ピンとこない人は、当然のことを言っているとしか感じないかもしれません。ですので、もう一度言います。これは“自分そのもの”なのです。体に例えるなら、骨とか心臓とか神経とか目といった、それこそ自分を象る根本的な存在なのです。鍛え上げた肉体、着飾った容姿、洗練された振る舞い、そういったものは後天的に身に着けることもできるでしょうし、時代とともに変化していくものです。短期的な変化も可能と言えば可能でしょう。でも、この重石はそういうわけにはいかないものなのです。

かつて、

母に向けた笑顔も、

友達と遊びに行く前日の夜のウキウキ感も、

空高く流れる雲を窓から見つめた平安も、

皆、その時々のあなたの世界観と実状にあわせて、今は重石と感じられるこの存在が生み出してくれたものです。

ブラックホールが光さえをも外に出さない理由は、その巨大な質量(重さ)にあるといいます。私たちの日常からは想像がつかない、凄まじいまでの膨大な塊がこの世で一番速いと言われる光さえをも凄まじいまでの重力場で捉えて閉じ込めてしまう。

同じことが起こっているのです。

心の中にあるその塊とも虚無ともつかない存在は、誰からも寄り添われずに放置され続け、喜びや幸福の感情を、そしてそんな感情とは別に分かってほしいと思っていた苦しさ、寂しささえをも奥底に閉じ込めたまま、巨大に育ってしまった。硬い外壁は無感覚を装い、感情を感じることを妨げてしまう。感じることが苦痛になってしまうなら、何も感じないようにしてしまおう・・・。そうやって出来上がったのが、今自分の中に感じている重石という“想い”。あるいは、偽りの“無”。

できることは、難しくないと思う。

この存在があなたの大切な一部なのだから、思い通りにならないからどうにかしようなどと思わないで。

ずっと一緒にいると伝えて下さい。

いえ、一緒にいる、と言う表現は不適切かもしれません。一緒にいない選択をすることは、骨を削ったり目をくりぬいたりする行為に等しいのだから。この重石は、決して取り除く腫瘍などではないのです。生まれてからずっと自分と一緒に旅をしてきて、あなたの大切な世界を守るために変化し続けてきてくれた存在なのです。

そこにはあなた自身がいる。

かけがえのないあなた自身が、間違いなくいます。

これから、どれくらいかけて身近さを感じるようになるのかはわかりません。でも、それが自分を守るために変化し続けながらずっとそこにいてくれたのなら、それはかけがえのない自分の一部なのです。

未来に向けて歩む中で、この存在がもう一つのあなたらしさを生み出し、あるいは思い出させてくれた時、これまでのことが決して無駄ではなかったと気づくことができます。

この存在を慈しみ、あなたの慈愛で柔らかくし、今は見失っているあなた自身をもう一度感じ取ること、それはあなたにしかできないことなのです。