依存を自覚したときに自分が自分であることが問い直される

日々の棚卸

 

自分の心の原風景を取り戻すこと、

 

遠ざけている自分を受け入れること、

 

見失った自分との邂逅を続けること、

 

自分が存在することが当たり前であることを

感じる必要がないほど当たり前になること、

 

自分の中に愛情を受け入れる素地を作ること、

 

自分を慈しむ心の土壌を醸成すること、

 

自分と仲良くすること、

 

人生に謙虚になり、そして遠慮しないこと、

 

同質の2つの関係性を“コインの表裏”で

表現することがあるけれど、

 

ここに述べたことは、二次元ならぬN次元の

コインを様々な角度から眺めた上で、

 

同じこと、同じ方向を指していることを

焦点の当て方を変えて表現しています。

 

自分は自分以外の何者でもないし、

おそらくは他の何者にもなり得ないこと、

何者になったとしても幸福ではないこと、

 

そんな認識ともつながることですね。

 

自分が自分でなくなっていると、

社会的にどんな地位にあったとしても、

世の中とのつながり方の依存的な部分が

自分自身で認識できなくなります。

 

中でも、

世にいう共依存=Codependencyとは、

自分が自分でない状態の常態化を

意味するのかもしれません。

 

その昔、

心理アドバイザの学校で学んでいた際、

 

教師でもある精神科医がぼそっと言った言葉が、

今も耳に残っています。

 

「共依存は、人を殺しますよ」

 

えらく不穏な表現で、一足飛びの感があり、

とっさに理解できないロジックに

聞こえましたが、

言わんとすることが今はわかります。

 

不要な無理の状態を演じ続けることは、

不要な無理の状態を演じるもう一人によって

支えられ、

 

無理が無理を支える構造が

やがてそれぞれの内面とお互いの関係を

蝕んでいく、ということ。

 

無理が美徳であるかの如く

無理を続けるために無理を続け、

ある臨界点に達した頃には

取り返しのつかない状態になっている。

 

瞬間的にとんでもない状態になっていれば、

危険に気付くこともできるけれど、

 

奇妙な安定感に包まれながら

ゆでガエルのように追い詰められていくのだから、

質が悪い。

 

共依存が人と関係性を蝕む本質は

そんなところにあると思います。

 

 

共依存は、

家族の中や男女の関係でだけ起こるかというと

そうではありません。

 

会社の上司や同僚、友人や知人との関係が

共依存によって歪んでいることは少なくないし、

 

時には、

仕事やお金、食事や健康との付き合い方、

素敵であるはずの思い出や描く未来さえ、

共依存的になり得るからです。

 

そういう意味では、依存症とは

依存対象と当人との共依存のこと

なんでしょう。

 

意識していないと、往々にして、

仕事や人づきあいなどの関係が途切れた後で

気づくことになりかねなません。

 

だから、自分が自分であること、

少なくともあろうとすることは、

それほどに大切なことだということですね。

 

 

共依存の話をもう少し。

 

共依存の状態とは、

奇妙に安定していると書きましたが、

決して居心地がいい状態ではありません。

 

自分に無理があるから、

ものごとはスムーズにいかないし、

 

自分の内に抱える不安や不満を

適切にくみ取れないから、

 

よくわからない不快な感情が渦巻き、

それが心身に影響を及ぼすからです。

 

どこかで誰かに腹を立てていて、

それがわからずにいつも

体のそこかしこが不調です。

 

気づくこと自体が難しい状態ですが、

そこから抜け出すことは、

自分が何者かを突き詰めることと

“コインの裏表”の関係でもあるのです。

 

 

ここまで

共依存をとんでもないことのように

表現してしまいましたが、

 

無力な子供時代の私たちはある意味、

親と共依存関係の中で育ちます。

 

そして、理想的には

ある頃から少しずつ依存関係を離れて

自分の足で歩いていくようになります。

 

自分の意思で歩き出したとき、

 

自分が自分であることが十分でない、

自分が自分のままで十分でない、

と思うことが強すぎると、

 

見栄や世の中の評価や人の目や

収入、ステータスなどが、

歩みの足かせとなって襲ってきます。

 

逆説的ですが、そんなときには、

自分自身が十分に自分でないということを

受け入れることができません、

というか気づかないこともあります。

 

だから、常に、

自分が自分であることを意識して

生きることが、

 

大人となった私たちに問われ続けます。

 

自分が自分であることが自然になってくると、

日常的な意味のない腹立ちや不快な感覚が

ベールをはがすように薄らいでいきます。

 

その時には、

自分の元を作った両親と生い立ちにまで

思いを馳せて、

 

彼らがその状態で生きてきた苦労を

感じられるようになり、

 

いつしか自分が自分として

生きられるようになります。

 

 

私の父が、母が、家族が、

自分の中で呪いから解き放たれたとき、

蜷局を巻いて蠢く、

哀しさや悔しさのシーンとして根付いていた

過去という亡霊達の奥に、

 

無限に湧き出してくるかのようにして

素敵な時間が蘇ってきました。

 

歪みながらも愛着を保ってくれた

父母の生きてきた生い立ちを生きてきた中で

 

よくもここまで育て上げてくれたものだと、

素直に感動したのです。

 

恐ろしい風景、残酷な光景、哀しい思い出、

そういった自分の判断の指標を支配していた時間が、

 

旅行し、買い物に行き、コタツでテレビを見、

喧嘩し、一緒に居ることを共有していた愛着へと

戻っていきました。

 

そんな時間をくれた彼らに、感謝の情を捧げたい。

 

 

同じことがあなたにもおこります。

もう起こり始めています。

 

その時、それはそのまま、

生きてきたあなた自身への賛辞であり、

これからを生きるあなたへの賛辞でもあるのです。

 

ありがとう。

感謝しています。

 

めったに口にしない言葉が本音の感情を伴って

湧いてくることでしょう。

 

意識しでそうなるものではありません。

 

自分が自分であることは、

あなたにしかわからないことです。

 

もしかすると、ここで読んだ話さえ、

自分が自分であることにはならないかも

しれません。

 

ですが、世に啓発されている一連のことに

惑わされることなく、

自分が自分であることを求めることが

あなたが納得する人生を築いていくことだけは

申し上げられます。

 

恢復の心理学とは反対の話だけど、

 

思い切り感傷に浸ればいいと思います。

 

昔懐かしい町を歩けばいいと思います。

 

思い切り過去を懐かしめばいい。

 

そして、少しずつ現在に戻ってきて、

小さなことでいいから、

というより小さなことからこそ、

自分が欲することを一つ一つ見つけて

行くといい。

 

そんなことを忘れて、

 

やたら実現しそうもない大きな事を

想い描いてしまったり(否定はしませんが)、

 

時間が作るものではなく

与えられるものだと思い込んでいたり、

 

自分という存在が、

小さな経験や思い込みの

膨大な蓄積の上に成り立っていることを

忘れていたり、

 

していないでしょうか。

 

もし今が行き詰って苦しいのであれば、

 

いきなり明るく楽しく充実して気持ちよくて

人の関係が豊かでリッチな日常には

なりません。

 

現実を変えることがあるとすれば、

 

どんな明るく楽しく充実して気持ちよくて

人の関係が豊かでリッチな日常の幻想を

自分に与えるか、

 

そのためにはどんな小さな変革が必要か、

 

そんなところを一つ一つ考えていきましょう。

 

さて、次は何をしましょうか。

 

ー今回の表紙画像ー

『秋の空』ようやく秋が来たなあ。