祈りの使い方の例

日々の棚卸

 

常々、

自分を丸ごと受け入れることの

大切さを述べていますが、

 

自分を受け入れた深さと、

こここそは自分の居場所だ、

という感じ方は、

結びついている気がします。

 

気がすると書きましたが、

そう信じられる、という方が

近いかもしれません。

 

自分を丸ごと受け入れること:

 

良いところはそれでいいけれど、

自分が悪いと感じている自分と

もう一度向き合って自分の一部として

一体化して生きていくことです。

 

格好悪い自分、

二度と見たくない自分、

蔑み忌み嫌う自分、

苦しく辛かった自分、

絶望している自分、

いい気になって付け上がっていた自分、

人を傷つけた自分、

大切な人を突き放した自分、

醜い容姿と思っている自分、

お金がない自分、

資格がない自分、

幸福を感じられない自分、

未来が暗い自分、

……

 

人の数だけいくつもあるはずです。

 

ともかくも、

そういった自分をきちんと知り、

本来大切であるはずのそんな自分と

記憶と身体の感覚の中で邂逅し、

自分自身であることを自覚し、

これからの人生を一緒に生きていく、

 

そう覚悟し、実行することが

自分自身を丸ごと受け入れることの

概略です。

 

シンプルに言えば、

素の自分を丸ごと受け入れること、

それに尽きるわけです。

 

しかし、これは

とても奥が深いことでもあって、

 

人が暮らす社会の中で生きている限り、

100%できている人は

おそらく一人もいません。

 

そこには、

表層的な理屈や、社会の事情や、

そういったものとは異質の、

 

自分に深く寄り添い、

自らが作り出した幾重もの虚構の層を

めくり続けて見出すこと、

洞察が求められるからだと思うのです。

 

その時、ともすれば

固く閉じこもった殻の中にいたり、

心が動かなくなっていたり、

 

そこまでいかなくとも、

周囲に合わせることに汲々として、

自分を見失っていたり、

 

結果として

“そこ”に居ること自体が

苦しくて仕方なくなっていたり、

 

という状態になっている、

ということが往々にしてあります。

 

何かを恐れ、何かに怯え、

返す刀で何かに腹を立て、

何かに絶望しているのだけど、

 

今の目の前の、

本当は幻想であるはずの、それらの

怖れの、怯えの、怒りの、絶望の対象へ、

必死に対処しようとして、

 

逃げ戸惑い、

倒れる寸前の愛想笑いを浮かべ、

突然倒れ、

睡眠不足に陥り、

日々の生活が辛くなっていたりします。

 

それはもしかすると、

明日もまた同じ、という嫌な想像が

現実をもたらしているのかもしれません。

 

ここでは、

あえて“幻想”という言葉を使いました。

 

お分かりかと思いますが、

 

目の前の、

あなたをこじらせる何か、

誰かは幻想です。

 

ただ、心もまた幻想であるとすると、

影響を及ぼすから厄介です。

 

それは、

自分を受け入れることと、

ある種コインの裏表の関係にある

感覚なのかもしれません。

 

自分を受け入れるほどに、

目の前の幻想は形を変え、

表現を変え、

 

自分に違和感を与えていた、

より本質的な人や出来事となって

あらわれてくるようになります。

 

自分の受入れについて

少々繰り返しますが、

 

例えば、

周囲に合わせて汲々としている一方で

自分の中は空っぽ、というのは、

 

怖れに沿って生きていた自分を、

とても忌み嫌っていて、

そこから目を背けるための

心と身体の反応だったことを直感し、

 

これ以上遠ざけることなく、

その自分に寄り添い、

見放さないと誓うこと、

 

そして、そんな自分が

どうやって出来上がってきたのかを

探るとともに、

 

自分が哀しかったこと、

嫌だったこと、

苦しかったことを棚降ろすこと。

 

ここで祈ることが必要になる、

そう思います。

 

私たちは頭で考えてしまう。

 

ホントに困ったことに、

意識に上がる、

そう認識しづらいわずかなこと、

 

いや、

心で感じて正直に生きているというが、

それさえ“これまで”に培ってきた

正邪の理屈に沿った結果なのです。

 

100メガボルトをつないだ掃除機は

絶対に動かずに破壊されます。

 

海中に打ち捨てられたパソコンは

まともに動くことはありません。

 

私たちは電化製品ではありませんが、

“普通”と言われる状態で

機能するための環境や土台の経験が

乏しいまま作り込んできた、

 

ものの見方、受け止め方の連続が

今の幻想を形作っているとするなら、

 

まずはそれを知り、

 

そうではない環境や土台を知る

ところか始める必要があります。

 

祈ることは、

その方向を見失わないための、

理屈を超えて望むことを

自覚することでしょう。

 

湧き上がる感情に責任はありません。

 

でも、感情は嘘をつきます、

 

というより、

 

本音とは思えない形で表出されます。

 

その根っこを、

そのさらに奥の層にあるものを

知るためには、

 

徹底して自分と向き合うこと、

これにつきます。

 

当然ながら、

どうしても苦しくて

元の自分に閉じこもりたくなることも

特に最初のうちはあります。

 

そんな自分をも知り、

やっぱり受け入れること。

 

そんな、もしかすると、

経験したことのない、

 

想像のつかない自分の居場所を

想い描けるようになることは

現在地と目的地を知ることにつながります。

 

それを忘れず、厭わず、

少しでも前に進むための目印となる光は、

口を開けて待っているだけでは

まず見つかりません。

 

仮に見つけたと思ったとしても、

自分がない状態では、

すぐに見失ってしまいます。

 

光はある意味、

私たち自身の中に見出せます。

 

それを自らに灯し続けるためにも、

私たちは祈るのです。

 

それを繰り返す中で、

ある頃から自分の中に、

自分を慈しむ心の力学が自然に

機能するようになるのかもしれません。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『畑』