子供の頃、半ズボンをはいて鼻垂らしながら草原を元気に駆けずり回っていた……という方は、どのくらいいるのかな。おそらく、私を含めてそれほど多くはないと思うのですが。
そんなことない?
草原ですよ、草原。
言葉の定義みたいなところがあるけど、ちょっとした原っぱや空き地が遊び場だったことはあっても、見渡す限りの草原なんてなかなかお目にかかれないのは、私が知らないだけでしょうか。
町の中で生まれ育ったせいか、子供の私にとっての自然と言えば、近所の空き地・草むらと、家の近くを流れる比較的大きな川の土手の2つくらいでした。後は、近くにあった某産総研の中の木々や街路樹くらい。振り返ってみると、“自然”が少ない、本当に当時の典型的なコンクリートとアスファルトで固められた町の中で暮らしていたんだなと思います。
ただ、今になってそういった言葉で表現するほど無機質に固められた記憶として思い出されることがないのは、やはりあちこちで同世代の子供やその親御さんとつながっていたり、まだまだ木造の建造物があちこちに残っていたからなのかもしれません。もちろん、繰り返し様々な自分と和解を続けて、過去を肯定的に思い出すようになったということもあると思いますが。
ともかく、街の中で育った割には、ずいぶん、木々に触れたり、昆虫や魚と親しんだりしていました。田舎の方で子供時代を過ごされた方は、もしかするとそれが日常だったかもしれないですね。
家の近所で遊びまわっている時も、昆虫や魚を捕まえに行くときも、周囲にはいつも自分と同じ年代の子供たちが一緒でした。つるんで行動してたということです。自分を含めた彼らのことを、今は勝手に“ちび連”とネーミングしていますが、あの頃はそれを漠然と“友達”と呼んでいました。タモやバットをもって、ほんとうに飽きもせずよく遊んでいたものです。
中学生になると部活動を始めて生活スタイルが変わり、一緒に活動する同級生たちができました。
彼ら彼女らとは、スポーツというストイックさ(というほど御大層なものでもありませんが)や楽しさを含む活動の中で、協力し、衝突し、共感し、時に絶縁したりもしました。同じメンツで、日がな一日だべりまくったり、映画を見に行ったり、海に行ったり、恋愛の相談にのったりなどということもありました。
懐かしいな。
高校も似たような感じだったと思います。受験がある分、3年生の時はかなりタイトな生活でしたが、それでもぎりぎりまで部活もやっていたし、時間があれば友達と会って遊んでいました。
こう書いてくると、いつも友人たちと仲良く楽しく生きていたように聞こえるかもしれませんが、一人ぽつんと取り残されたような気になったこともあったし、実際に仲間外れにされてめそめそしたことだってもちろんあります。そんなときは、本当に寂しくてつらかったけれど、それでも何となく時間は過ぎて行ってくれました。今にして思えば、曲がりなりにも家族があって、そこにいることが当たり前に感じていられたからでしょうね。
これまでにも書いてきたように、両親の衝突はある頃から夫婦喧嘩というにはあまりに凄惨な様相を呈して、私と妹はいつもそれに翻弄されていました。それをとりなし、面倒を見ることに奔走(?)するときもありましたが、もう嫌だと思った時には友達の家に逃げ込みました。そういう意味では、どこかに逃げ場がいつもあったというか、あると思っていたことが、あの頃をなんとか生きてこられた理由なのかもしれません。
私が社会人になる頃のことはこれまでにも何度か書いた通りで、他者と付き合うこと自体を拒否していましたが、後に自分を恢復し、かけがえのなさに気づいた頃から、もう一度人とのつながりを取り戻しました。つながりの中には新しい人も懐かしい人もいて、そこでまた子供の頃と同じように、協力し、衝突し、共感し、遊ぶようになりました。
会社で働いていた人とこういう関係になることはまれでした。0ではなかったけれど、そこには明らかに一線がひかれていました。会社の中の人々が悪かったわけではなく、多分に私自身の器がそうさせたのだと感じています。
私は概して友達は少ない方だと思っていますが、友達以外でもつながっている人がいます。仕事とも、趣味とも、隣人とも、親戚関係とも、昔からの友人たちとも異なる、落ち着いた関係です。
みなさんがつながっている人々はどんな関係でしょうか。
一緒にいて楽しい人と落ち着く人、
あるいは、
つながりの最初が楽しい関係の人と弱みや苦しみを共有する関係の人
魂的なつながりを必要としない人と大切にする人
(魂とは、スピリチュアルな意味合いでもいいですが、個々の生き方とか存在の受け止め方のようなものと考えてください)
前者を友達、後者を仲間と呼ぶとすると、
友達と仲間が異なる人もいれば、同じ人もいる。
一部が重なっている人もいる。
片方はいるけれど、もう片方はいない、または意識したことがない、という人もいる。
どちらが、どれがいいとか悪いとかいうことではありません。
一見、仲間の方が友達より高尚であるかのように読めるかもしれないけれど、そんなことはありません。どちらも大切。
ただ、恒常的に抱えている生きづらさや行き詰まり感が孤立を招いていたり、自分一人で抱えることに無理を感じているとき、寄り添ってほしい人を友達という関係に求めるには限界があります。それを他者に甘えすぎることなく自立した対処を実践していく上では、仲間がいるといい。仲間は、慣れあったりだべったりするには不向きですが、互いが同じく共有する価値によって独立して生きていくことを見守りあい、信じてくれる関係になりえます。
読まれて感じる通り、仲間という関係だからこそ弊害となる可能性もあります。
ある種の宗教や自己啓発でつながった人の関係は、そういうところに陥りがちである現実を見せてくれています。
ただ、私たちは人の関係の中に恐れを見出して、なかなか根源的な部分でつながろうとしなくなっていると思います。それは、私自身もそういうところがあったし、今だってある。私とお話しする方々もまたそうです。
なので、心のこと、生きること、家族や人の関係、自分を受け入れられていない人が感じる否定感などで人を求める心境になっている人は、友達ではなく仲間がほしいのだと理解してください。
自分が欲することを自らに明確にしておくことで、その先の行動や反応が変わってきます。
友達と仲間。
繰り返しますが、どちらがいいというものでもありません。
友達は友達で、いるといい。
仲間も同じ。
自分に合った人とのつながり方を考えてみましょう。
ー今回の表紙画像ー
『ちょっと前のお伊勢さん』
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