変化とは身体の感覚を書き換えること

日々の棚卸

 

午後の時間ずっと続いた

リモートでの打ち合わせが

ようやく終わった雨の月曜日の夕刻、

 

買い物ついでに足を向けた駅の前で

小さなトラブルの場面に遭遇しました。

 

さしている傘どうしがぶつかり、

それ以上の接触を避けようとして

片手に抱えた買い物袋を

落としそうになった若い男性が、

 

傘がぶつかった中年女性に舌打ちし、

小さく悪態をつく声が聞こえてきました。

 

男性は何事もなかったかのように

そのまま遠ざかって行く女性を

しばらく睨みつけてから

そのまま歩きだしました。

 

出来事としては、

それだけのことだったのですが、

 

見ていて、あまり気持ちの良い

場面ではなかったのは確かです。

 

若い男性はおそらく20代前半で、

着なれているようには見えないスーツを、

肩からずり落ちそうな感じで着ていたので、

 

一人暮らしの若いサラリーマンか何かで、

夕食の食材とかを買って

帰宅途中だったのかもしれないと

勝手に想像していました。

 

家に戻った後も

彼のことが何となく脳裏に残っていたのは、

 

最近個人的にあまり目に入らなくなった、

苛立った目つきと表情の若者の姿に、

若い頃の混乱していた自分が

重なっていたからかもしれません。

 

きっと私は死ぬまで、

こういう若い人のことをどこかで、

自分と重ね合わせてしまうのかな。

 

ともかく、

重ね合わせた若い頃の自分は、

家族の混乱に苛立ち、絶望し、

 

それでいてどうしたらいいかわからない、

無力さと情けなさと世の中の不公平さを

全く昇華しきれず、

 

その方法があるかどうかもわからないまま

何かに囚われてもがいていました。

 

長く自分を取り戻す試みを続け、

少しずつではあったけれど、

 

そして、

自分とは何かがわかってくる中で

幾つもの選択を行ったけれど、

 

それは決して、

現実の解釈を変えたり、考えを変えたり、

といったことだけでは

十分ではありませんでした。

 

あの頃の自分の“感覚”。

 

自分を貶める“感覚”が支配する…。

 

その時の自分は自分に対して、

 

それほどひどい言葉を

投げかけていただろうか。

 

それほどひどく自分を

痛めつけていただろうか。

 

そう振り返りつつ、

当時既に学習していた知識と共に、

自分の身体に問いかけてみますが、

 

概念としてはともかく、

どうにもそれらの“言葉そのもの”としては

しっくりきません。

 

苛立ち憤る感情の裏側にある、

怖れに気づくことができるまで、

問いかけは空しいままでした。

 

しかも、

その怖れに気づいたからと言って、

先に述べたように、

現実の解釈を変えれば

それでめでたし、となるわけでもありません。

 

身体の“感覚”を変えない限り、

現実は変わらないのです。

 

何もしないまま、

『意識』と『イメージ』を変えようとしても

変わるものではないのです。

 

ここで、身体の“感覚”を変えるために

必要なことは、

よく言われるとおりで行動です。

 

その真意は次の通りだと私は考えています。

 

怖れを生きてくる中で、

 

「好きなことをやろう」

「楽しく生きよう」

「やりがいを見つけよう」

 

などと言われても、

 

そんなものがそう簡単に

“実感を持って”感じられるなど、

とても限られています。

 

これを仕事にしたら楽しい!

こんな時間を過ごしていれば幸せ!

 

といったことを見つけましょう、

などといったところで、

 

本気でそこまで感じられる状態に

すぐになれる人は、まずいません。

 

なぜならそれは、いえ、

そこに行きつくまでには、

 

自らが行動と選択を繰り返し、

それらの結果を“身体に”フィードバックし、

“感覚”とそれに伴う“感情”と

しっかりと向き合うことも

繰り返す必要があるからです。

 

そのプロセスを常にアクティブにして、

行動と選択を繰り返すのです。

 

例えば、こんな感じでしょうか。

 

自分の感覚に沿って行動を選択する、

するとささやかな期待に対してさえ

100%実現したとは言い難い結果が

目の前にあらわれる、

 

ああ、やっぱり駄目だったか、

と思いながらも、

 

足りない部分を分析するとともに、

自分の身体の“感覚”をしっかりと

受け止め、

 

けれども、

けっしてその“感覚”が全てではなく、

そこに押し流されないようにする、

 

そして次の選択をして、行動する。

 

すると、多少ましになったかもしれないけれど、

まだ自分を満たすにはいろいろ足りない、

そんな結果が生じて、

その時にまた自分の“感覚”と向き合う。

 

「もうダメだ」

そんな感情が顔をのぞかせるけれど、

それもまた昔から付き合いのある

自分らしい感情として

宥め、あやしながら、

次に向かう、

 

そしてまた……。

 

当然ゴールなどはなくて、

けれども、

その繰り返しの中

(2度や3度ではないでしょうが)に、

『それまでにはなかった』

自分のためのゴールが見えてきます。

 

というか、勝手にあらわれてくるでしょう。

 

もしかするとその間に、

お金や何かで想定外の困苦は

生じるかもしれないけれど、

 

それは多くの場合は、

世間体との戦いに過ぎないでしょう。

 

そんなことより、

もっとも凄いこと、大切なことが

起こっていることに気づくのは

もう少し後のことになるのかもしれません。

 

どういうことかと言うと、

 

世の中の目を必要以上に気にせず、

 

『自分の想いに従って行動する方法と、

それによって得られる歓び、充実、勇気』

 

を手に入れたかもしれないことです。

 

ここに至って、

それまで怖れていたことは

いったい何だったのだろう、

と気づくようになります。

 

何事も一朝一夕では変わりません。

 

『継続は力なり』です。

 

怖れを受け入れて、

自分と向き合って、

少しずつ動き続けること。

 

これに勝るものはないのはないでしょうか。

 

 

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ー今回の表紙画像ー

『ベランダの朝顔がようやく咲いた♡』