頭隠して尻隠さずの依存症

未分類

 

普段あまり乗らない路線の電車に乗ったり、

降りる駅の出口が電車の進行方向で

一番前側にあったりすると、

 

走る電車の前方を見ようとして、

一番前(運転士さんの後ろの窓の前)に

陣取りたくなります。

 

いつもというわけではありませんが、

そういうところは何と言うか

ちょっと幼い?

 

この性格は自慢にはなりませんが、

子供の頃から一貫して変わっていません。

 

さすがに大人になると、

同じ目的で同じ場所を陣取ろうとする

子供と対立するわけにもいかず、

多少遠慮はしますが、

さりげなく彼らの後方から

一緒になって前方の景色を眺めています。

 

 

心理カウンセリングを受け始めた頃のことです。

 

まだ自分の心の中が整理されてないまま

鬱々とした日々を送っていました。

 

カウンセリングを受けた後、

当時暮らしていた街への帰路に

ついたときのことです。

 

平日の日中と言うこともあってか

電車の中は空いていたので、

一番前の窓に陣取り、

前方の風景を眺めていました。

 

とある駅に電車が停車したときのことです。

 

ドアが開くと、

2mはある名じゃないかと錯覚するような

恰幅の良い大柄の男性が乗車してきました。

 

何気なくドアの方を振り向き、

すぐに真っ直ぐこちらに近寄ってくる

タダならない姿が目に入りました。

 

(やばい)

 

それが直感でした。

 

男性の目は見事に座っていて、

それでいて

どこを向いているかわからない。

 

そんな感じでした。

 

そうはいっても下手に動くこともできず

すぐに視線を前方に戻したのですが、

何と彼は私の背後から覆いかぶさるように

窓枠に手をついて

前方を眺め出したのです。

 

一瞬呆然とした後、

有無を言わさない、

殺気のような雰囲気に危機を感じたので、

二つほど後方のドアのところへ

さっと場所を移動しました。

 

少し距離を置いて見直しましたが、

その男性前方をじっと見ていました。

 

よく観察してみると、

腰にはウイスキーとのハーフボトル

(ポケットサイズではない)が差し込んであって、

 

前方を見続けながら

たまにそれをつかみだしては

あおっていました。

 

あの、無言の状態で

人を圧倒的に威圧する雰囲気と

ポケットにささっていたウイスキーとが

どこまでつながるかはわかりません。

 

ただその酒瓶が、彼の生き方の一部に

介在しているであろうことは

想像に難くない雰囲気だったのは確かです。

 

 

依存症とは、簡単に言うと、

それなくして日常が成り立たない

モノ、コト、プロセスがあることで、

 

しかも同時に、

 

その依存対象が原因で、依存症者の

対人関係がおかしくなっていたり、

なぜかお金がどんどんなくなっていったり、

心身の健康を圧倒的に害していたり、

 

それでいて当人は、

その対象に自分が依存していることを

認めないまま、苦しんでいる、

 

そんな症状を指します。

 

前世紀の終わりくらいから、

依存症となる依存の対象は

生活の中のあらゆるモノ、コト、プロセスが

該当することがわかってきています。

 

依存症について、

誤解を恐れず例えて言うならば、

 

それは、

心身の健康の借金を重ねるようなもの、

ということでしょうか。

 

タバコやアルコールは取り込み型の

モノとしてわかりやすいでしょう。

 

他にも、

それがないと、それをしないと、

自分が保てないのなら、

 

過度なスマホいじりも、

日がな一日眺めているテレビも、

健康のためと称して続ける運動も、

負けたくないとのめり込む仕事も、

行き過ぎた被害妄想も、

全てが対象になりえることがわかっています。

 

なんでテレビが、

などと思ったりもしますが、

 

それにのめり込むことで自らを保っていると

無意識に思いながら、

実際には日常も自分も蝕んでいくものは

依存の対象になるのであり、

 

それ自体が“病気”です。

 

厄介なことに依存症になってしまうと、

自らの意志の力だけでは

やめられなくなってしまいます。

 

依存症とは、

自分自身とのつながりの欠如を放置した

結果がもたらした、

一つのいきつく先だ、と私は考えています。

 

だから、依存症からの回復には、

もう一度根源的な意味で

自分自身と繋がりなおす必要があります。

 

そのためには依存対象の支配から

抜け出ることが必要なのですが、

これがなかなか大変です。

 

そこに至る世界に存在する

パラドックスをクリアする

必要があるからです。

 

自分と繋がれない環境に生きてきたからこそ

生じた症状を取り払うことは、

ある種の恐怖に直面することになります。

 

なぜなら、自分と繋がれない環境下とは、

自分と繋がっていたら感じる痛みに

耐えきれないからこそ

放置していた自分がいて、

 

その放置して傷つき頽れたままで

心身の痛みと直面せざるを

得ないからです。

 

心理学・精神医療における治療、

というより対処方法がパラドキシカルである

所以はそんなところにあるわけです。

 

意志の力、というより、

意固地に凝り固まっていた(当人からすれば

まさに正当なことを何としても

続けようとしていただけなのだが)自分という、

勝手に作り上げた世界を

手放す必要があるのです。

 

それ、つまり手放すということは、

言い換えれば、今まで放棄していた

素の自分と再会するための旅を

選択することです。

 

隠していた現実と感情に直面する

決意が必要になるのです。

 

直面するのは隠していた自分自身。

 

厳しいこともあるけれど、

決して残酷な出会いにはならないことだけは

確かです。

 

 

MDL(My Dear Life)の概要を知りたい方はこちらへお越しください

https://nBkBtBnihidetBkB.com/meeting/

 

個人の相談はこちらへどうぞ

https://nBkBtBnihidetBkB.com/business/

 

 

 

ー今回の表紙画像ー

『公園の丘から眺めた夕景』

畑にウスバキトンボがとぶようになった。

暑いけれど、夏の盛りが過ぎようとしている…のかな。